無料ブログはココログ

« 佐屋街道 探索 | トップページ | 😊道の駅 立田ふれあいの里 13km 自転車で 45分 »

2020年6月 5日 (金)

生まれ

1951/9/2生まれ

生まれた場所は笠岡駅前の商店街の中の某アパート

父親は笹さんと友達みたいでした。

しかし本籍は甲弩539

記憶があるのは尼崎の住金の南側の山陽鉄工 山陽鉄工は倒産して跡形もない

寮みたいのところから外をながめている 僕がいる写真がある。

引越しをして東洋精機のご近所の食堂 イズミヤのオムカエ付近で住んでいました。

その時に左腕の肘部分を熱湯の入った鍋に突っ込みました。

父は山陽鉄工をやめて 尼崎市金楽寺3丁目70で畑を買い取り 30坪の工場を始めました。

今から思えば 父に甲斐性があるはずがなく 嫁の実家から 借りたかもしれません

今度会えたら聞いてみます。

従業員も 5人ほどおりました。

イズミヤさんの ご近所に狂信的なばあさんと 娘がおりました。娘は20代ぐらいでしたか

座敷牢に入れられていました。 狂てました。

そのばあさんは 教会の中で 材木をクベ お祈りをしていました。

父は信者だったのでしょう。 父は大正14年12月11日生まれ 

単車の前部座席?燃料タンクの上?に乗せられて 伏見稲荷に何度となく 連れていかれました。

昭和33年?夏ごろ 父がたぶん酔っぱらって 電話局のブロック塀に単車で激突したのでしょう

帰りが遅いので 母と 心配しておりました。 その夜 母は出かけて 帰ってこなかったのでしょうか。

樋口病院に入院したとか 武庫川の精神病院に入院したとか 帰ってきた父は 別人でした。暴力ばかりふるっていました。

母は小学生2年生の時の私の誕生日の日に 出ていきました。私の好物を作ってから

DVばかりの日がつずきました。 3年生の時に常光寺の田中鉄工所の社長の紹介だと思いますが

新しい母が来ました。浜内初江さんでした。勇夫さんという連れ子もおりました。

しかし 父のDVです。 勇夫さんは数年後 京都の八木の大きな農家に 養子に行きました。

その農家で 私は 焼まったけを腹いっぱい食べました。

でも貧乏生活つずきます。母は私を育ててくれました。 育英中学校も卒業し 県立尼崎高校も卒業しました。

が卒業まぎはに がんにかかったようでした いえ 末期でした。3年10組の 男ばかり60人のクラスでしたが 母のため血液型が合う

14人ばかりの 級友が 血をくれました。その時のことを 私は 忘れては いけません。

 

   

« 佐屋街道 探索 | トップページ | 😊道の駅 立田ふれあいの里 13km 自転車で 45分 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。